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ヤマハ YZR500
ケニー・ロバーツ 1979
1979年に、ケニー・ロバーツ選手のライディングでWGP500ccクラスのタイトルを獲得したヤマハ YZR500の模型です。チャンピオンバイクコレクションのNO.11です。

OW45
アメリカヤマハのワークスカラーであるUSインターカラーに白、黒のストロボラインが鮮やかな、ヤマハYZR500。ケニー・ロバーツ選手がWGP500ccクラスの2連覇を達成したバイクです。
1973年に初登場したYZR500は、初代OW20から2002年の最終型OWL9まで、全28のバージョンあり、この1979年型はOW45で、初登場以来の鋼管パイプフレームを使用した最後のマシンとなり、1980年からはアルミフレームが採用された。
OW45には前年から正式採用されたYPVS(ヤマハ・パワーバルブシステム)を装備。これはエンジン回転数に合わせた最適な排気タイミングを得るためのバルブ装置で、より広い回転域で、より強いパワーを発揮させた。
並列4気筒のエンジンはこの後スクエア型4気筒に変更、更に1983年、ホンダNS500と激闘を展開したOW70はV型4気筒だった。
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YZR500 主要スペック
- エンジン:水冷2ストローク並列4気筒 ピストンバルブ方式
- 排気量:497cc
- 最高出力:100馬力以上
- 最低車両重量:--Kg
| 1位 | ケニー・ロバーツ | ヤマハ | 優勝5回 | 113ポイント |
| 2位 | バージニオ・フェラーリ | スズキ | 優勝1回 | 89ポイント |
| 3位 | バリー・シーン | スズキ | 優勝3回 | 87ポイント |

ロバーツvsスペンサー
アメリカのダートトラックレースで活躍していたケニー・ロバーツは、1978年、ヤマハチームからYZR500でGP500ccクラスにフル参戦。前年まで2連覇の最強スズキRG500&バリー・シーンとの激戦を制し11戦中4勝を挙げ、フル参戦1年目でチャンピオン獲得。1979年怪我のためなどで2戦を欠場したが、12戦中5勝を挙げ2年連続タイトルを獲得した。

1980年、開幕3連勝、しかしシーズン後半スズキに追い上げられた。結果的に8戦中3勝で3連覇を達成した。1981年以降、YZR500のエンジンをスクエア型、V型と変更したが実力が発揮できず、500ccタイトルは再びスズキに奪われた。
1983年、前年から台頭してきたホンダNS500を駆るフレディ・スペンサーと世界GP史上に残る激闘を展開。チャンピオンの行方は最終戦までもつれ込み、ロバーツがそれを獲得するためには、最終戦は自身が優勝し尚且つスペンサーが3位以下となる必要があった。
ロバーツは首位に出てスペンサーを抑え込みチームメイトのエディー・ローソンが2位に上がるのを待ったが、二人に追いつく事は出来なかった。結局最終戦はロバーツの優勝で終わったが、僅か2ポイント差でチャンピオン獲得は成らなかった。キングと呼ばれているケニー・ロバーツはこの年限りで現役を引退した。500ccクラスにフル参戦したのは6年間と短い。
ケニー・ロバーツは、1985年と1986年の鈴鹿8時間耐久レースに出場しているが共に途中リタイヤとなっている。特に1985年はペアーを組んだ平忠彦がトップを快走中、残り時間僅かのところでマシントラブルでスローダウンし優勝を逃した。

| Round | 順位 | |
|---|---|---|
| 1 | ベネズエラGP | 欠場 |
| 2 | オーストリアGP | 優勝 |
| 3 | 西ドイツGP | 2位 |
| 4 | イタリアGP | 優勝 |
| 5 | スペインGP | 優勝 |
| 6 | ユーゴスラビアGP | 優勝 |
| 7 | オランダGP | 8位 |
| 8 | ベルギーGP | 欠場 |
| 9 | スウェーデンGP | 4位 |
| 10 | フィンランドGP | 6位 |
| 11 | イギリスGP | 優勝 |
| 12 | フランスGP | 3位 |
| 西暦 | 年間成績 | ||
|---|---|---|---|
| 1978 | 500ccクラス | ヤマハ | チャンピオン |
| 1979 | 500ccクラス | ヤマハ | チャンピオン |
| 1980 | 500ccクラス | ヤマハ | チャンピオン |
| 1981 | 500ccクラス | ヤマハ | 3位 |
| 1982 | 500ccクラス | ヤマハ | 4位 |
| 1983 | 500ccクラス | ヤマハ | 2位 |

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