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ヤマハ YZF-R7
芳賀紀行 2000
Yamaha WSBK Teamの2000年スーパーバイク世界選手権(SBK)、芳賀紀行選手のマシン。チャンピオンバイクコレクションNO.18の模型です。
750cc4ストローク4気筒エンジンを搭載したYZF-R7・OW02は、1999年に登場したスーパーバイクマシンです。
SBK公認の市販車となるために最低限必要な500台が、ホモロゲマシンとして生産されました。従って市販車YZF-R7も戦闘力の高いマシンだった。当然の事ながら、国内の公道で見かけることはまず無い。
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2000年型は最高出力170馬力以上とされるが、それを上まわるホンダとドゥカティの2気筒マシンに対しても、全くひけを取らない走りを見せた。
だがシーズン終了後、ヤマハはMotoGPレースに集中するためもあって、SBKでのワークス活動の休止を発表した。YZF-R7の進化もこの年で止まった。
1997年、全日本スーパーバイクチャンピオンを獲得した芳賀紀行選手は、1998年からSBKにフル参戦。シーズン開幕戦のオーストラリアラウンドレース2でいきなり優勝。最終戦日本ラウンドで5勝めを挙げ、シーズン最多優勝タイをマークした。
YZF-R7で2年目となる2000年、シーズン開幕戦の南アフリカラウンドレース1で2位、レース2で優勝と好スタートを切った。しかし、レース後のドーピング検査で禁止薬物が検出された。シーズン前に減量のために服用した健康食品の漢方薬がその原因だったようだ。FIMの処分は開幕戦のポイントはく奪と三週間の出場停止。
ヤマハはCAS(スポーツ仲裁裁判所)に提訴し、処分保留の状態で芳賀選手はレースを戦った。その間も4回の優勝を含み着実にポイントを獲得し、ランキング2位につけ優勝圏内にいた。
最終戦を前にしてCASの裁定が下り、開幕戦レース2が失格で、最終戦にも出場出来なくなった。その結果、2000年シーズンランキング2位が決定した。チャンピオンはホンダのコーリン・エドワーズだった。
攻撃的な激しい走りが人気の芳賀選手は「NITRO NORI」の愛称で親しまれている。当時のヘルメットには「I'm gone!」と記されていた。
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Round | レース1順位 | レース2順位 | |
---|---|---|---|
1 | 南アフリカ | 2位 | 失格 |
2 | オーストラリア | 10位 | 2位 |
3 | 日本 | 2位 | 4位 |
4 | イギリス | 4位 | 4位 |
5 | イタリア | リタイヤ | 5位 |
6 | ドイツ | 3位 | 優勝 |
7 | サンマリノ | 7位 | リタイヤ |
8 | スペイン | 3位 | 優勝 |
9 | アメリカ | 優勝 | 2位 |
10 | ヨーロッパ | 5位 | 4位 |
11 | オランダ | 3位 | 優勝 |
12 | ドイツ | 9位 | 5位 |
13 | ブランズハッチ | 欠場 | 欠場 |
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